NHKのラジオ講座をやめるのこと

10年続けてきた『実践ビジネス英語』が3月末で終了したので、『ラジオビジネス英語』に移行してみたのだが、やめることにした。

 

それほど悪い講座とは思わない。むしろ月~水のLessonは続けたいのだが、木・金のインタビュー回が詰まらない。曜日によって変化を付けようとするのはNHKの語学講座にありがちなのだが、自分はあまり好きではない。RPG内のミニゲームが嫌いなのと似たような感じなのかもしれない。

 

退屈なインタビュー、中途半端なトランスクリプト(意味あるのか?)に付き合うくらいなら、YouTubeで動画を漁ったほうがいい。自分の守備範囲外のものに触れられるとういう効用はあるのだろうが、ストレスの方が大きい。

 

月~水の講座だけでも続けようかと思ったが、それもスッキリしないので、すっぱりやめることにした。

 

 

※総じて語学講座のインタビュー回というものが好きではない。インタビューを英語で聞くのが嫌いなわけではない。

まいちにフランス語

NHKラジオの「まいにちフランス語」が地獄である。

1)いったいどの層を対象にした講座なのか不明。

2)スキットを1とすれば、そのほかの部分が50ぐらいあるテキスト。ただ文や単語を羅列して詰め込んだだけ。スキットは「ドラマ仕立て」を装うためのただの飾り。

3)テキストを棒読みするだけの日本人講師。

NHKの語学講座はその質よりも、ペースメーカーとしての価値のほうが高いと思うのだが、これだけ「とにかくテキストに書いといたから!全部覚えてね!」方式だとちょっとつらいというか、自分で文法書と単語集、フレーズ集をやったほうがよっぽど楽しい気がする。

 

今んとこ、こんな感想で1ミリも楽しくないのだけれど、もう少しやってみるつもり。

結構なストレス源である。

 

 

もう一回だけTOEIC受けてみた他

はいこれ。

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納得はいっていない。

リスニングが満点なのは何故か?初回受験時の戦意喪失レベルの音響とはいえないまでも、今回もそれなりにげんなりするレベルではあった。1回目の音響を-10とすれば、2回目が±0、3回目の今回が-5~-6といったところだろうか。予想点数としては450以上で、上積みされていればその分うれしいといったところだったのだが。

点数はとりあえずまあいい。結果として満点だったが、会場の音響は今述べたようにほめられたものではなかった。では、同じ会場で日本語がスピーカーから流れた場合はどうだろう?おそらく、よほど専門的な語彙を駆使されない限り、ほとんど聞き取れるだろう。であれば、英語でもそのレベルを目指すべきではないのか?イエス。しかし、それは私個人の極めてプライベートな努力目標でしかなく、公的な試験環境というものは……。われながら、うざくなってきたので省略。とにかく、最低限の受験環境を提供できるようにしてほしいと思うであります。一方、安定して満点近辺をうろつく人達が音響に文句を言っているのを、自分の観測範囲では、あまり見かけない。彼らは「そういうレベル」に達しているのだろうか?一度話を伺ってみたいものである。

 

リーディングに関しては、矢張り時間配分が問題な気がする。Part5~6で20分で収めるところまでは常にいけている。ということは、自分のもっとも得意なPart7で手こずっているということだ。本来なら、Part7は満点を獲るつもりでいって、結果1,2問落としてぐらいが理想なのだが(もちろん1問も落とさないのが最上だけど)、どうにも最後で時間が足りなくなる。Part7の途中で、目安となる時間設定を考えておくべきなのかもという気はする。480→455→435の下降具合は、リーディング好きとしては情けないが、まぁ、しょうがない。

 

というわけで、TOEICはひとまず終了。

今年はフランス語にちょっと手を出してみるつもりだが、"Bonjour!"の発音ですでに挫折しそうであります。

 

 

<余談>

はてブにあがってる英語学習記事でよく見かける、「発音できない音は聞き取れない」というフレーズ。ブコメにも同意のコメントが並ぶことが多いようなのですが、正直、なぜあんなに賞賛されつつ受け入れられているのかわからない。そう思いつつぐぐって見たら、結構同じ疑問を抱いている人が多かったので、語る必要もないと思ったしだいです。けど、ちょっと言いたかった。

 

TOEICを受けてみた

TOEICを受けてみた。
TOEIC高得点=高英語力」ではないとはよく言われているし、自分もそう思っていた(今もそう思っている)。故にずっと未受験であったわけだ。しかし同時に、「英語力が高いのならばTOEICは余裕で高得点が取れるはずである」とも思っていたし(今もそう思っている)、もしかしたら、えらそうなことを思いつつも自分の力がハッキリと数値化されるのを恐れているの?という疑念を自分自身に感じてしまった。そうなれば仕方ない、サクッと受けて、目標点(900点にしてみた)をサラッとクリアして卒業しようと思い、受験してみた。

 

 

 

初受験(第204回:2015/10/25)

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試験会場が大学の講堂で、あからさまに音楽鑑賞用の残響時間。反響しまくりでろくに聞き取れない。「音のテストはしています」とは何なのかと小一時間…。怒りで不貞寝しようかと思ったが、リーディングだけでもベストを尽くそうと思い直したのがこの結果。

 

 

 

2回目(第206回:2015/12/13)
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初受験の帰り道即申し込んだ。今度の会場はいわゆる大学の大教室。チープなラジカセだったが、全然問題ないレベル。前回のリスニングの結果を音響のせいにしたのが言い訳じゃない事が証明できた…か?

しかし、「PART6終了時点で55分残し!余裕!」と思ってじっくり解いていたら、時間が足りなくなる不覚。そのせいでリーディングが落ちてしまったのは残念だが、目標点はクリアできたのでまぁよしとする(不満)。

 

 

とりあえず目標点をクリアしたので、当初の予定どおりTOEICは卒業。と言いつつも、いささかの不満があるので、もう一回だけ受ける予定。
ちなみに、自分の英語力が高いとは思っていないし、実際全然高くないです。念のため。

12月に観た映画

今更!もう1月も終わりに向かっているのに!それでもせっかく1年間記録をつけたので、遅ればせながら12月に観た映画を記しておこう。
14本。半分はHuluで済ませた。『デュー・デート』は映画全体としてはいまいちだけど、意外と風景が良い。音楽も中々だったように思う(おぼろげ)。こういう映画は、ドライブ中の風景も音楽もひどい場合が多いけど、この作品は別。もちろん、素晴らしいという程ではないし、出来は矢張り微妙。
インターステラー』を観る前に、『インセプション』を再鑑賞した。『インセプション』の初見は劇場だったのだが、もうものすごくがっかりな出来で二度と見るまいと誓ったのだった。しかし、これほど世評が高いならば自分の鑑賞眼がおかしいのかもしれんと思い、この機会にもう一度見る事にしたのだった。全体的な感想はさして変わらず。でも、クソ映画は言い過ぎだったかもと(少し)反省した次第。
で、『インターステラー』。『インセプション』よりはずっと好きかも。ノーランは画を作りこむ作家でありながら(だからこそ?)、その作品を代表するような画がない監督だと思っていたのだけれども、コーン畑(だっけ?)を車で突っ切るシーンはなかなかよかった。ちょっと狙いすぎ感はあったけれども。いろんな人が優れた考察や感想を述べているので、今更言う事はないんだけれども、主演のマシュー・マコノヒーの演技は、まんまイーストウッドでしたよね?
ブルージャスミン』は『欲望という名の電車』でした。

1.デュー・デート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断~
2.ルディ
3.ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
4.お熱いのがお好き
5.バトルシップ
6.ジョーズ
7.インセプション
8.インターステラー
9.マイアミ・バイス
10.魔界転生(1981)
11.オール・ユー・ニード・イズ・キル
12.グランド・ブダペスト・ホテル
13.ブルージャスミン
14.アフリカの女王


結局、2014年は203本の映画を鑑賞しました。何かまとめめいたことを書こうかと思ったけれども面倒臭くなってきたので、また今度。もうこんな記録はつけない(と思う)。


 

11月に観た映画の一覧とか

12月だから忙しいということは特に無く寧ろ暇なのだが、今年もラスト1ヶ月と思うとついつい己にノルマを課してしまい、自分で自分の首を絞めてしまう感じ。
せっかくなので Hulu に入っている作品を中心に観てみた。『神々と男たち』を観て、修道院の生活にかなりの興味が沸く。ちょうどそんなときに、Amazonアガンベン『いと高き貧しさ』をお薦めされ、これは天啓!とばかりに購入しようと思ったが、『アウシュヴィッツの残りのもの』を積んでたことを思い出し、とりあえずほしいものリストへ。そんなわけで『アウシュヴィッツ~』読んでる。

言の葉の庭』は予想通りのひどさ。新海誠の美術は綺麗だ綺麗だというけれど、そのなにももたらさない綺麗さは、ラッセンあたりに比肩するものだと思う。同じ土砂降りの描写でも、例えば宮崎駿の『風立ちぬ』のそれには新鮮な驚きがあったが、この作品ではただただ退屈なだけだ。他の部分についてはもう何も言うことは無く、今年のワースト5に入る勢いでありました。

前半(ウィンターズ・ボーンくらいまで)は良かったが、後半はだれた1ヶ月。あ、『カンフーハッスル』は勿論例外。不覚にも観たことを忘れていたが、これは当然傑作。

 

1.シェーン
2.巴里のアメリカ人
3.戦略大作戦
4.カンパニー・メン
5.理由なき反抗
6.ノスタルジア
7.神々と男たち
8.ウィンターズ・ボーン
9.レスラー
10.茄子 アンダルシアの夏
11.エンド・オブ・ホワイトハウス
12.ネイビーシールズ
13.カンフーハッスル
14.言の葉の庭

「他者」について/吉本ばななと村上春樹

"他者"とは、私の外に在り、私の思い通りにならず見通すことのできない者であり、しかも私が求めずにいられない者のことである。(柄谷行人*1


日本の文芸批評において、「他者」、「他者性」という言葉が異常なまでに重視されてきた。もちろんこれは、柄谷行人、蓮實重彥、浅田彰ら批評空間系批評家の強い影響を示すものである。

とりわけ柄谷において顕著な他者性の重視は、様々な作家・作品を不当なまでに低く評価する事態を招くこととなる。確かに、優れた作家・作品は「他者」を見事に描き出している場合が多い。漱石が女を他者として描いたように。
しかし、この他者性重視の方向性は、以下のような傾向を生む。

1)安直に「他者」を見出せそうな作品を過大に評価する傾向。
2)わけのわからないものをとりあえず、「他者」や「他者性」のカテゴリに突っ込んで神秘化する傾向。

この2つが絡み合うことによって、非常にお手軽で便利な価値判断基準が出来上がる。なんだかわけのわからないものがある(様に見える)作品、ポリフォニック(に思える様)な作品こそが傑作である、というものである。その一方で、余計なものを削ぎ落とし、精緻な建築のように組み上げられた作品は、なるほどその技術は見事であるが、芸術的には一歩劣るなどと矮小化される。
この便利なやり方を試みに使ってみよう。例えば、クロード・シモンの『フランドルへの道』を、よくわからないが凄いと思った場合、「シモンにとって戦争こそが他者である」などと言ってしまえばいいのである。なるほどそれらしく見える。いやいや、そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、この様な批評まがいの方法はかなり氾濫していたし、未だにその存在は無視できない。この手法を用いれば、文学作品に限らず、ジャクソン・ポロックでもデュシャンでも村上隆でもお手軽に料理できるのだから。webにあふれる批評を標榜する文章の多くに、他者他者言っておけばいいといった傾向がみられるのは、ある意味、いたし方の無いことなのかもしれない。

さて、この様な価値判断基準によって断罪されてしまった、割を食った作家の代表として、吉本ばななよしもとばなな)と村上春樹を挙げることが出来るだろう。柄谷イズム全盛期と時を同じくしてブームを巻き起こした両作家は、当然のごとく、他者が描けていないという批判にさらされるのだが、それに対して彼らはどう反応したのか?


吉本ばななの場合

失礼な言い方になるが、吉本ばななは「他者」や「他者性」が何なのか、まったくわかっていなかった。それでも非難はそれなりに気になっていたらしい彼女は、奇妙な対策を施す。

身内で在るということから、失望から、かすかな嫌悪を感じる。反射的な嫌悪なので、どうしようもない。過敏な彼にはそれが伝わる。だから寄ってこない。なんとなく気まずい。(『アムリタ』)

 

私に分析される恐怖を回避する。情けない。(前掲書)

 

主人公が、自分の弟に嫌悪を表明する。この様な表現は、それ以前の彼女の作品には見られなかったものだ。仲良しこよしで閉じられた円環を、ゆるふわ感全開のばななワールドを、この様な描写で打破できる、他者性が導入できる、と考えたのは相当に間抜けではある。しかし、読者の誰も望んでなかったであろう試みを強いられた彼女には、同情せざるを得ない。その後の吉本ばなながどこへ向かったかは、寡聞にして知らないし、興味も無いので、我々はもう一人の流行作家、村上春樹の場合を検討してみよう。

 

村上春樹の場合

村上春樹はよりシリアスに他者性を求めていた。彼もまた吉本と同じく、あるいはそれ以上に、他者性の無さを批判されてきたが、彼が他者性を求めるのはそれ故ではない。漱石ドストエフスキーを愛する彼は、いつか『カラマーゾフの兄弟』の様な作品を書きたいと思っており、それには他者性の獲得が必要不可欠だという自覚がある。そこで村上は意識的に多様な声を獲得しようとした。その試みが、地下鉄サリン事件の被害者・関係者たちへのインタビューを集めた『アンダーグラウンド』であり、そしてもうひとつが、『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハンにみられるような、作品への「歴史」の導入である。「歴史」という、確かな強度を持って存在しつつも、一面的な解釈を拒み、その全容は決して捉えることができないもの。それを導入することによって、他者性も獲得できると彼は考えた(もちろん地下鉄サリン事件も一つの歴史的な事件である)。『海辺のカフカ』における、非村上春樹的登場人物の導入(星野)も、他者性獲得のための試みであろう。

だが、彼の試みは未だ上手くいっているとは言い難い。彼の文章のスタイルはあまりにも強力であり、何を書いても村上春樹印がくっきりと刻印されてしまっている。例えば、『アンダーグラウンド』を読むときに感じる不快感は、悲惨な事件そのものがもたらすものだけでなく、インタビュイーの声をそのまま伝えようと真摯に努力しつつも、表れてくるのはいつもの通りの村上春樹であるというねじれによると言えるだろう。自分のスタイルを持っているということは、作家として得がたいものであるのだが、彼の場合にはそれが不幸の原因となってしまっている。春樹語が作り上げるナルシスティックな空間に穴を穿つのは、そう簡単なことではない(個人的には無理だと思っている)。


締める。
確かに、他者や他者性は批評において最重要なトピックの一つである。しかしながら、「○○にとって××が他者なのだ(ドヤァ)」とか言っておけば、それなりに批評的な文章になると考えている人たちが、未だに多すぎる気がする。たいがいそういう人は、「自明性を疑う(ドヤァ)」というような台詞も大好きなのだが、安易にマジックワードに頼って、何が批評か。自分の読みの甘さによって、明晰に分析できない点を他者というブラックボックスにぶち込んでしまえばいいと思っているくせに、自明性を疑うなどとはちょっと恥ずかしい。

勿論、柄谷らの影響力の余波が弱まるにしたがって、「他者」の偶像破壊といった様なものも進行している。

「他者」(これってときどき文系の人が使う、大仰でとんでもない絶対理解不能者みたいな意味じゃなくて、ちょっとちがう相手、くらいの意味の他者だよね? カッコつける必要ないと思う)
(山形浩生 の「経済のトリセツ」,2014-03-22 ケインズ投資法、宇宙SF)

 

 

村上春樹はかつて「セックス」と「死」についてこう語った。

その頃僕はセックスと死があまりにも安易に小説に利用されてきたと感じていた(「村上春樹ロング・インタヴュー」『par Avion』1988年4月)*2

この「セックスと死」を「他者」に、「小説」を「批評(的なもの)」に変えれば、大体今の自分の気持ちと合致するように思える。

 

 

 

吉本ばななの項に関する補足

『FRUITS BASKET』(福武文庫)における島田雅彦との対談より。

ばななさんの作品で描かれる関係というものに、他者がいないという人がいるが、僕はそうも思わないのね。(島田雅彦) 

 こう言っている島田が、そのすぐあとで、

おそらく、この先、ばななさんも、まぁ環境にもよるだろうけど、他者性にぶつかっての戸惑いとか、不快とか、苦痛とか、それについて考えざるを得なくなるだろうし……

ほとんど前言撤回じみた本音をこぼして、吉本に

なんか、私が今まで考えていないみたいな……(笑)

 こうつっこまれているのは中々面白い。

もう一つ、この対談には示唆的な箇所がある。

島田 ちなみに私が二十五になる前の頃に、作品を発表したときに、ある人が、この人は童貞じゃないのかねと、賞の選考委員会で言ったそうだが、童貞だっていいじゃない、なあ

吉本 ほんとだね。よく私も言われますよ。

 おっさん臭い文壇とやらで、女が書けているとかいないとか言っている者達の他者とは所詮こんなものだったのだ。彼らにとって「他者が書けていない」とは、「お前は童貞(処女)か?」というエロおやじの絡みと同程度のものでしかなかったのである。

 

 

長い……。乱文失礼しました。

*1:夏目漱石『それから』(新潮文庫)の解説より

*2:ユリイカ村上春樹の世界」よりの孫引き。他にも同様の発言があったように思うが、出典を思い出せず。