『abさんご』黒田夏子(仮)

最新の芥川賞受賞作を読むなどということは、ついぞしたことが無かったのですが、web上で公開されていた冒頭部分を読んで我慢が出来なくなり、単行本を購入しました。

結論から言えば、大変素晴らしかったです。

作品が素晴らしいと、自分の言語化能力の乏しさを否が応でも思い知らされるので、感想を書くのを躊躇してしまいがちなのですが、今回は読了したばかりの勢いに任せて少し書いてみたいと思います。

 

1)

たいして英語力も高くも無い本読みが、四苦八苦しつつペーパーバックを読み進めていく。

しかし、その苦しさが、日本語で読んでいる時についつい忘却しがちになる、「テキストに謙虚に寄り添うこと」を思い出させてくれることがあります。強いられた「遅さ」が、普段ついついやりがちな速読めいた読み飛ばしを不可能にし、一つ一つの描写を愛でる事を思い出させてくれる。こういった外国語によって可能にされる「読み」の再発見を母国語(日本語)で可能にしたのが、『abさんご』独特の平仮名過多の文であると思います。

 

2)

まず外国語を引き合いにだしておいてなんですが、一方でこの作品の文章はどこか懐かしさを感じさせるものがあります。

そう、『枕草子』をはじめとする王朝文学を思い起こさせる字面です。また、タイトルを掲げた章段ごとに区切って、風物について語るスタイルも。

 

3)

『abさんご』という一見不思議タイトルなわけですが、意外なほどはっきりと本文中に記されています。

そこからすると、「aとういう選択肢、bという選択肢、abどちらでもないという選択肢。その選択肢の分岐する様は珊瑚のようである」というのが最も一般的な解でありましょう。

「aであったかもしれない自分、bであったかもしれない自分。あるいはcかdか……」

で、『abさんご』の凄いところは、これを読者の「読み」のなかで読者自身に実践させ、経験させているところです。

漢字という視認性の高い文字を丁寧に廃し、平仮名へと置き換えることによって、読者は必ず読み間違えます。

私たちは無意識のうちに次に来る言葉を予想し、目線をスライドさせていくわけですが、この作品のテキストはその予想を巧みに裏切ります。間違えに気付くたびに、いきつもどりつし、一応の「正解」へとたどり着いたと思って先へと読み進む。そこで間違えとして捨て去られ直ちに忘却される「読み」達。それこそがaでありbであり……なのです。

このようなことは多かれ少なかれ、どのようなテキストを読むときにも発生していることです。しかし、普段私たちはそうであったかも知れないaやbには頓着せずに読み進んでいきます。母国語に習熟すればするほどに、読みは自動化されそこに……。

 

 

 

「読了したばかりの勢いに任せて」といいつつ、結構時間がたってしまった。しかも中途半端。

とりあえず上げて後で書き直す。blogなんてそんなものでいいよね。