読書メモ

失われた時を求めて』(高遠弘美訳)は2巻読了。このまま3巻へ進むか、3巻を読み終わったら、高遠訳の4巻は出ていないがどうするか。

 

『現代アートの哲学』(西村清和)は、第9章を読んでいるところ。

最初のほうは大変面白く読んでいたのだが、5章・6章で詰まった。

 

5章は「作品の論理的身分」である。論理的身分とは一般に耳慣れない言葉であるが、それに関して特に解説はない。サールの"The Logical Status of Fictional Discourse"のLogical Statusの訳語のようだが、もしかしたら単に自分が知らないだけで、(哲学畑には)一般的な用語なのかもしれない。

 

さて、表題に「論理」と入っているからか、この章と、その流れを受け継ぐ次の章では「論理的」と言う言葉が頻出するのだが、この「論理的」というのが如何な論理を指しているのかいささか不明瞭である(気がする)。なので、「論理的にいうかぎり~である」と言い切られても、そうか?と頭を抱え込んでしまう。無論、これは単に私がアホなだけというのは十分にありうることだ。ひとつ言っておきたいのは、そこに示されている帰結そのものに反対しているわけではないということだ。つまり、これが著者の信仰告白であれば別段問題なく受け入れられる。まぁ、それだと哲学だとか美学だとかである意味がないと思うが。

 

そして、6章の最後はそれまでと打って変わって、著者自身である「わたし」が登場し、「わたし」にとっての読書の快楽を説く。いや、いいんですけど、なんだかこの二つの章はひっかかるんですよね。他の人の意見を読めばすっきりするかもと思ったのだが、検索しても芳しくなく、仕方なく先へと進むことにしたのだった。