「ターナー展」

東京都美術館へ「ターナー展」を見にいってきた。会場に入るやいなや、予想に反して凄い混雑で心が折れかけた。テレビ等で宣伝されたのか、それとも3連休パワーか。ベルトコンベアのように動かなければならないのは結構なストレスである。しかし、何時までも途方にくれていてもしょうがないので、いそいそと並びつつ観ていく。後半にいくにしたがって混雑は緩和されていったし、ソファで休みつつ空くのを待って鑑賞できたのでよしとしたいところだが、やはりちょっと不満が残る。こればっかりは仕方がないけど。 

そういえば、『スカイフォール』にターナーの絵が出てたのね。今更webでそれを知らされるとは、無知である。無教養である。それはともかく、この映画は一枚の画として成立するような美しいショットが散見されるのだが、とりわけ、最終決戦近く、車から降りたボンドが見渡すスコットランドの荒野の風景は格別である。ターナーの絵画が登場していたことを踏まえると、このスコットランドの風景にもターナーの影響がと…言えないかも知れない。 

ターナーの絵画は晩年へと向かうにつれて、「かたち」が溶け、ほとんど色の構成、濃淡と筆触だけのものへと変化していく。もちろん、習作や生前未発表作品が多いし、単に書きかけであったりするかもしれないことは頭に入れて置く必要はあるだろうが、それはそれこれはこれである。それらの、ザオ・ウーキー辺りを想起させる作品群は確実に美しい。  

さて、ついこの間まで読んでた本にこんな箇所があった

 

一枚の絵を見て、そこにこれまで経験したことのない迫真的なイメージを見いだし、その結果、今度は現実のものの見かたが変わるということもあるのではないか。たとえば、美術館でターナーの一連の風景画を見たあとで、そとにでたとき、ときに世界がそのまえとはすっかりちがった光におおわれ、すべてがあたかも、ターナーの絵のように見えるということがあるかもしれない。(西村清和『現代アートの哲学』P.78)

 

なんとタイムリーな。実際、夕方にベランダから雲を見た時に、「まんまターナーじゃん!」と思ってしまったw(ここでは、そんなことは絵画経験の本質では無いと続くのだけれども)