「他者」について/吉本ばななと村上春樹

"他者"とは、私の外に在り、私の思い通りにならず見通すことのできない者であり、しかも私が求めずにいられない者のことである。(柄谷行人*1


日本の文芸批評において、「他者」、「他者性」という言葉が異常なまでに重視されてきた。もちろんこれは、柄谷行人、蓮實重彥、浅田彰ら批評空間系批評家の強い影響を示すものである。

とりわけ柄谷において顕著な他者性の重視は、様々な作家・作品を不当なまでに低く評価する事態を招くこととなる。確かに、優れた作家・作品は「他者」を見事に描き出している場合が多い。漱石が女を他者として描いたように。
しかし、この他者性重視の方向性は、以下のような傾向を生む。

1)安直に「他者」を見出せそうな作品を過大に評価する傾向。
2)わけのわからないものをとりあえず、「他者」や「他者性」のカテゴリに突っ込んで神秘化する傾向。

この2つが絡み合うことによって、非常にお手軽で便利な価値判断基準が出来上がる。なんだかわけのわからないものがある(様に見える)作品、ポリフォニック(に思える様)な作品こそが傑作である、というものである。その一方で、余計なものを削ぎ落とし、精緻な建築のように組み上げられた作品は、なるほどその技術は見事であるが、芸術的には一歩劣るなどと矮小化される。
この便利なやり方を試みに使ってみよう。例えば、クロード・シモンの『フランドルへの道』を、よくわからないが凄いと思った場合、「シモンにとって戦争こそが他者である」などと言ってしまえばいいのである。なるほどそれらしく見える。いやいや、そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、この様な批評まがいの方法はかなり氾濫していたし、未だにその存在は無視できない。この手法を用いれば、文学作品に限らず、ジャクソン・ポロックでもデュシャンでも村上隆でもお手軽に料理できるのだから。webにあふれる批評を標榜する文章の多くに、他者他者言っておけばいいといった傾向がみられるのは、ある意味、いたし方の無いことなのかもしれない。

さて、この様な価値判断基準によって断罪されてしまった、割を食った作家の代表として、吉本ばななよしもとばなな)と村上春樹を挙げることが出来るだろう。柄谷イズム全盛期と時を同じくしてブームを巻き起こした両作家は、当然のごとく、他者が描けていないという批判にさらされるのだが、それに対して彼らはどう反応したのか?


吉本ばななの場合

失礼な言い方になるが、吉本ばななは「他者」や「他者性」が何なのか、まったくわかっていなかった。それでも非難はそれなりに気になっていたらしい彼女は、奇妙な対策を施す。

身内で在るということから、失望から、かすかな嫌悪を感じる。反射的な嫌悪なので、どうしようもない。過敏な彼にはそれが伝わる。だから寄ってこない。なんとなく気まずい。(『アムリタ』)

 

私に分析される恐怖を回避する。情けない。(前掲書)

 

主人公が、自分の弟に嫌悪を表明する。この様な表現は、それ以前の彼女の作品には見られなかったものだ。仲良しこよしで閉じられた円環を、ゆるふわ感全開のばななワールドを、この様な描写で打破できる、他者性が導入できる、と考えたのは相当に間抜けではある。しかし、読者の誰も望んでなかったであろう試みを強いられた彼女には、同情せざるを得ない。その後の吉本ばなながどこへ向かったかは、寡聞にして知らないし、興味も無いので、我々はもう一人の流行作家、村上春樹の場合を検討してみよう。

 

村上春樹の場合

村上春樹はよりシリアスに他者性を求めていた。彼もまた吉本と同じく、あるいはそれ以上に、他者性の無さを批判されてきたが、彼が他者性を求めるのはそれ故ではない。漱石ドストエフスキーを愛する彼は、いつか『カラマーゾフの兄弟』の様な作品を書きたいと思っており、それには他者性の獲得が必要不可欠だという自覚がある。そこで村上は意識的に多様な声を獲得しようとした。その試みが、地下鉄サリン事件の被害者・関係者たちへのインタビューを集めた『アンダーグラウンド』であり、そしてもうひとつが、『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハンにみられるような、作品への「歴史」の導入である。「歴史」という、確かな強度を持って存在しつつも、一面的な解釈を拒み、その全容は決して捉えることができないもの。それを導入することによって、他者性も獲得できると彼は考えた(もちろん地下鉄サリン事件も一つの歴史的な事件である)。『海辺のカフカ』における、非村上春樹的登場人物の導入(星野)も、他者性獲得のための試みであろう。

だが、彼の試みは未だ上手くいっているとは言い難い。彼の文章のスタイルはあまりにも強力であり、何を書いても村上春樹印がくっきりと刻印されてしまっている。例えば、『アンダーグラウンド』を読むときに感じる不快感は、悲惨な事件そのものがもたらすものだけでなく、インタビュイーの声をそのまま伝えようと真摯に努力しつつも、表れてくるのはいつもの通りの村上春樹であるというねじれによると言えるだろう。自分のスタイルを持っているということは、作家として得がたいものであるのだが、彼の場合にはそれが不幸の原因となってしまっている。春樹語が作り上げるナルシスティックな空間に穴を穿つのは、そう簡単なことではない(個人的には無理だと思っている)。


締める。
確かに、他者や他者性は批評において最重要なトピックの一つである。しかしながら、「○○にとって××が他者なのだ(ドヤァ)」とか言っておけば、それなりに批評的な文章になると考えている人たちが、未だに多すぎる気がする。たいがいそういう人は、「自明性を疑う(ドヤァ)」というような台詞も大好きなのだが、安易にマジックワードに頼って、何が批評か。自分の読みの甘さによって、明晰に分析できない点を他者というブラックボックスにぶち込んでしまえばいいと思っているくせに、自明性を疑うなどとはちょっと恥ずかしい。

勿論、柄谷らの影響力の余波が弱まるにしたがって、「他者」の偶像破壊といった様なものも進行している。

「他者」(これってときどき文系の人が使う、大仰でとんでもない絶対理解不能者みたいな意味じゃなくて、ちょっとちがう相手、くらいの意味の他者だよね? カッコつける必要ないと思う)
(山形浩生 の「経済のトリセツ」,2014-03-22 ケインズ投資法、宇宙SF)

 

 

村上春樹はかつて「セックス」と「死」についてこう語った。

その頃僕はセックスと死があまりにも安易に小説に利用されてきたと感じていた(「村上春樹ロング・インタヴュー」『par Avion』1988年4月)*2

この「セックスと死」を「他者」に、「小説」を「批評(的なもの)」に変えれば、大体今の自分の気持ちと合致するように思える。

 

 

 

吉本ばななの項に関する補足

『FRUITS BASKET』(福武文庫)における島田雅彦との対談より。

ばななさんの作品で描かれる関係というものに、他者がいないという人がいるが、僕はそうも思わないのね。(島田雅彦) 

 こう言っている島田が、そのすぐあとで、

おそらく、この先、ばななさんも、まぁ環境にもよるだろうけど、他者性にぶつかっての戸惑いとか、不快とか、苦痛とか、それについて考えざるを得なくなるだろうし……

ほとんど前言撤回じみた本音をこぼして、吉本に

なんか、私が今まで考えていないみたいな……(笑)

 こうつっこまれているのは中々面白い。

もう一つ、この対談には示唆的な箇所がある。

島田 ちなみに私が二十五になる前の頃に、作品を発表したときに、ある人が、この人は童貞じゃないのかねと、賞の選考委員会で言ったそうだが、童貞だっていいじゃない、なあ

吉本 ほんとだね。よく私も言われますよ。

 おっさん臭い文壇とやらで、女が書けているとかいないとか言っている者達の他者とは所詮こんなものだったのだ。彼らにとって「他者が書けていない」とは、「お前は童貞(処女)か?」というエロおやじの絡みと同程度のものでしかなかったのである。

 

 

長い……。乱文失礼しました。

*1:夏目漱石『それから』(新潮文庫)の解説より

*2:ユリイカ村上春樹の世界」よりの孫引き。他にも同様の発言があったように思うが、出典を思い出せず。